劉蓮蓉さんの家から明代辺墻が見えます。
3月7日昌平十三陵の特区事務所によると十三陵陵区の“辺墻”保護修繕の調査と設計の仕事は起動しました。史上に、十三基の陵墓を巡っている周辺の“辺墻”は再現できると見込みです。
“辺墻”は軍事の防御に用いたことがあります。
十三陵特区明代帝陵研究会会長胡漢生の紹介によると、明十三陵は昌平区天寿山の麓に位置して、周囲80平方キロメートル、無傷で保存されている陵墓区です。陵墓区の周りには元“辺墻”があり、13基の陵墓をその中にぐるりと取り巻いていました。
“辺墻”は“両門”、“十口”から構成して、“両門”は深紅の扉、小紅門で、“十口”とは灰嶺口、賢庄口、錐石口、雁子口、徳勝口、老君堂口、西山口、搾子口、東山口と中山口です。“山と山の間の谷”は“口”、“口”とは或いは城壁の水門(排水)で、或いは交通の要路です。”胡漢生さんは紹介しました。
半数以上の山口と“辺墻”は皆明朝嘉靖年間に建造したのです。“その時は辺境情勢の原因で、明王朝は陵墓の安全を保護するために、陵墓区の以外に辺墻を建築しました。”
明朝初期、陵墓の“辺墻”の警備が厳重です。皇陵は専任の看守宦官は守り、関係のない人は、陵墓を守る庶民でも含めて、辺墻の中に入ってはなりません。清朝に、陵墓を守る人を辺墻の内に居住することを許されて、各陵墓の周囲にはだんだん村落が現れました。
村民の裏庭には“辺墻”の遺跡が見えます。
百年の浸食と破壊で、“辺墻”の大部分はすでに崩れ落ちて、しかし依然として残っている遺跡が見えます。
十三陵鎮上口村の村民の劉蓮蓉さんの家の裏庭はちょうど“辺墻”に向かっています。この“辺墻”は大きさが違う石から積み重ねます。ずっと山の中腹まで続いて行き、山のはずれにはいくつか石があり、やや古い城壁の姿を見抜かせますとベランダから見えます。
“幼年の時に、この壁は3、4百メートル続いていたけど、今は100数メートル断続しているだけです。”“上口村の人は皆この壁が明十三陵の辺墻と知っていて、以前は壁だけではなくて、また長陵陵宮と同じ城門がありました。現在の辺墻もその時の格好ではなくて、昔は辺墻の表には条状の石に取り巻かれて、現在はたくさんなくなりました”と劉蓮蓉さんは言いました。
明代辺墻 長年修繕されてなくて、“辺墻”はだんだん人々の目の前から消えてなくなります。“10数年前、私は中山口へ実地調査の時に多少に石が見えるけど、現在は行くならもう探し出せないです。”胡漢生さんから紹介して、“文化財保護の角度から言えば、"辺墻"の修繕は非常に必要です。もし遺跡でもなくなるとそれが中国の損失です。
修繕、“文化財の元の格好を変えない”
十三陵特区辧事処副主任高小華さんから紹介してくれました。十三陵の文化財の修繕計画としては“辺墻”の保護、修繕する仕事は今年正式に展開されます。
“辺墻”の修繕は“文化財の元の格好を変えない”を基準にとして、実地調査、設計、遺跡を追求して、元の“辺墻”の遺跡に基づいて修繕したり、保護することを行います。
“辺墻”の修繕、一部明朝の歴史を再現できて、しかし完全に回復するのは不可能です。明朝に“東山口”を造った時に、東と西の望楼を建てて、東望楼の位置は今の十三陵ダム陳列館で、西望楼の位置は十三陵ダムです。復元すれば不可能です”と胡漢生は言いました。
明代辺墻
|