王建墓
成都市の西の郊外に「王建墓」があります。王建は元々河南省の人で、880年に黄巣の農民蜂起軍が長安を攻め落としたとき、彼は唐の僖宗皇帝のお伴として四川省に逃れましたが、動乱が平定してからも戻らずに利州(四川省広元県:楊貴妃の故郷)の刺史(地方長官)に任命されました。907年に唐が滅亡後、群雄割拠の乱世に王建が成都で皇帝となり、前蜀を打ち建てました。彼の墓は「永陵」と呼ばれ、1942年に防空壕を掘ったとき偶然に発見されたもので、1979年から一般公開されるようになりました。墓の外観は円形の山で、直径80m、高さ15mです。入り口に面している墓室は前、中、後の三つの部分からなり、前室と中室は木製の門で区切っています。言うまでもなくその当時の門ではなく、後に複製したものです。王建の棺は中室に置かれています。中央の棺座の側面には石堀の24人の奏者と、いかめしい顔をしている12人の力士の石彫があります。24人の奏者の中には踊り子が2人、他の22人はそれぞれ琵琶、箏、笙、鼓などの楽器を持ち、まるで王建皇帝のために演奏しているようです。この24人編成の宮廷楽隊は、全国で唯一、唐代宮廷楽隊としての完備しており、唐及び五代十国時代の音楽史や宮廷楽隊の構成、楽器史の研究をするためにも重要な歴史資料だと言われています。 12人の力士が棺の東西側面を支えていますが、その棺のお守りでもあるのでしょう。これらの像を見て、音楽だけではなく、当時の絵画、彫刻を知る上で貴重な資料となっています。後室の寝床にあるのは王建の像です。寝床は50cmほど高さの台座の上に置かれており、王建が座っている真中が両側よりすこし高くなっております。帝王の平服を着て、玉帯を腰につけている王建は優しい顔をしていて、音楽を楽しんでいるようです。中国では昔、歴代の主都はほとんど北方に建てられましたので、天子は北に座り、南に面するという決まりがあり、王建も例外ではなく、南に向かっております。お墓の中の発掘品からみて、「王建墓」が建造後の宋代に一回盗掘されたことがあるといわれていますが、あまり破壊されておりません。発掘されたものはほとんど「王建墓文物陳列館」に陳列されております。特に重要なのは「謚冊」、「哀冊」及び玉帯です。「謚冊」とは皇帝がなくなってからその功績を賛美する文章で、「哀冊」は弔辞です。皇帝のために正式に本を作ったのです。また、玉帯は昔帝王や官吏が腰に付けた玉の帯で、その太さにから官職の高低が分かり、皇帝が一番太いことも当然です。「陳列館」の中には当時の文化や町の建設、宗教、音楽、文学、彫刻などについても写真と文字で紹介しております。
中国語名:
王建墓(wáng jiàn mù)中国語名の読み方:
ワン ジェン ムゥ英語名:
Wangjian Tomb
王建墓の写真
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