開封

時間:2007-08-08 00:00作者:閲覧数:

開封開封は、河南省北部の都市である。中国でも有数の最も歴史が古い都市の一つであり、北宋代に首都となった。総面積6444平方km。人口は446万人(1995年)。開封の名の由来は春秋時代に遡り、当時この地方を支配していた鄭の荘公が現在の開封の近くに城を築き、そこに啓封と名づけた事から始まる。後に前漢の景帝(劉啓)を避諱して、同義の開の字に改められた。

戦国時代には魏の領域であり、大梁と名づけられて首都となった。しかし秦の攻撃で落城した際に、都市も荒廃し、漢の時代には郊外の陳留が地域の中心と位置づけられたために、その後はさほど重要な都市とはされなかった。隋代になり、大運河が開通すると一気にこの都市の重要性は高まり、南からやってくる物資の大集積地として栄えた。その後の唐末期に首都長安は荒廃し、それに代わってこの都市が全中国の中心地となり、唐から簒奪した朱全忠はここを首都として後梁を建てた。その後の五代政権も後唐を除いて全てこの地を首都とし、後周により汴州(べんしゅう、汴はさんずいに卞)と改称された。

その後周より禅譲を受けた趙匡胤により建てられた宋は東京開封府と称して、ここを首都とした。宋代の開封の繁栄は空前のものであり、区画同士の壁を取り払い、昼夜を問わず屋台や大道芸、講談などが行われ、市民文化が大きく花開いた。その繁栄振りは『東京夢華録』?『清明上河図』に記されている。

開封市は、中国語で“七朝都会”と呼ばれ、国務院が最初に公布した国家級歴史文化都市にも選ばれている。時代の変遷が開封に残した文物、遺跡は多く、開封の建築群のスタイルは多様で、宋、元、明、清、民国、各時代の特色を持っている。

龍亭公園、鉄塔、相国寺などの古跡のほか、北宋代の城下町の様子を再現した宋都御街は古風かつ質朴優雅である。

開封はまた、書画の故郷、戯局の故郷としても有名である。