王昭君(Wang Zhao Jun)
王昭君(おうしょうくん)は、姓を王、諱を檣、又は牆、嬙とも;字を、昭君。通常、王昭君と呼ばれる。荊州南郡(今、湖北省沙市)出身。匈奴の呼韓邪単于、復株累若鞮単于の時代の閼氏(単于の妻)。
前漢の元帝の時代、匈奴の呼韓邪単于が、漢の女性を閼氏にしたいと、元帝に依頼したところ、王昭君が選ばれ、以後呼韓邪単于の閼氏として一男を儲けた。しかしその後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣(遊牧民に多く見られるレヴィレート婚)に習い、義理の息子に当たる復株累若鞮単于の妻になって二女を儲けた。
漢族は父の妻妾を息子が娶ることを実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なす道徳文化を持つため、このことが、王昭君の悲劇とされ、民間伝承となった。
民間伝承によると、元帝は、匈奴へ送る女性を、後宮の中の一番醜い女性を選ぶため、似顔絵帳の中の一番醜い女性を選ぶことにした。似顔絵絵師に賄賂を贈らなかった王昭君は、一番醜く描かれていたため、王昭君が選ばれた。皇帝に別れを告げるための式で、王昭君をはじめて見た元帝は、王昭君の美しさに目を奪われたが、いまさら無しにすることは出来ず、しぶしぶ手放した。その後、呼韓邪単于が亡くなり、匈奴の習慣に習い息子の復株累若鞮単于の妻になった。そのとき、王昭君は、反発したが漢王朝から命令されしぶしぶ妻になった。これが、民間伝承の王昭君の悲劇であるが。しかし、これには疑問が多い。匈奴は当時の漢にとって最も重要な外交相手であり、その相手に対して醜い女を渡すと言った無礼をするとは考えにくい。これらの話は五胡十六国時代、南北朝時代に鮮卑に支配されていた漢族たちが自分たちの境遇を託したものではないかと考えられる。
これらの話は後漢代の『西京雑記』に載せられたのを初めとして(画工への賄賂の話はこれが初め)、晋代の『王明君辞』、元の馬致遠の雑劇『漢宮秋』などに作品化された。
王昭君の墓は、現在の内モンゴル自治区のフフホト市の近にあると云われる。