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楊貴妃(Yang Gui Fei)

投稿時間:2007年08月閲覧数:
楊貴妃(ようきひ、唐開元17年 - 至徳元載6月16日,中国‥

楊貴妃楊貴妃(ようきひ、唐開元17年(719年) - 至徳元載(元年)6月16日(756年7月15日))は中国唐代の玄宗の皇妃である。姓は楊、名は玉環。

出身は蜀(今、四川省)である。あまりにも玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたので傾国の美女と呼ばれる。

楊貴妃は元々玄宗の息子の妃の一人であったが、玄宗に見初められたために、一時的に道士となり、その後で、玄宗の後宮に入った。

玄宗は楊貴妃との愛欲の生活に溺れたため、まったく政治を顧みなくなり、彼女を喜ばすために楊一族の位を高くした。その結果、楊貴妃の従兄の楊国忠の専横を許すこととなった。中国史では伝統的な、外戚の専横である。

楊国忠は自らの名声を高めるため、遠征を行うなどの悪政を行ったために国力を弱め、民衆からの恨みを買うこととなった。

さらに楊国忠は権力争いのライバルである節度使の安禄山を蹴落とすために玄宗に讒言を行った。結果的に、これに危機感を覚えた安禄山は反乱を起こした。

首都である長安から逃げ出して蜀へ向った楊貴妃たちだが、兵士達は乱の原因となった楊国忠を強く恨んでいたため、彼の部隊を包囲して殺害した。さらに兵士達は、玄宗に対して楊貴妃を殺害することを要求したため、玄宗はやむなく楊貴妃を縊死(首吊り)させた。

白居易の『長恨歌』は、この玄宗と楊貴妃の離別の恨みを詠ったものである。

中国の西安市東郊に、【華清池】という遺跡があり、楊貴妃と玄宗のお風呂の場所と言われる。

日本の山口県では、楊貴妃が玄宗皇帝と共に安史の乱を逃れて日本に亡命してきたとの伝説が存在する。

又、レイシ(ライチ、茘枝)を好み、嶺南(現在の広西、広東)から都長安まで早馬で運ばせたというエピソードは有名である。

 

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