天龍山石窟
天龍山石窟の開削は、南北朝時代に遡る。
東魏の丞相高観(北斉皇帝高祥の父)がこの地に避暑宮を造営し、それに併せて石窟を開鑿したのが始まりと言われている。
この天龍山石窟は、東魏(西暦534年~550年)の頃から北斉を経て、隋、唐の時代に最盛期を迎え、五代のころまで通算約500年に亘り開鑿され続けた。
東魏の丞相高観が開鑿を開始した後、その子である北斉皇帝高祥は今の晋祠に晋陽を別都と定めて開鑿を継続し、隋の煬帝も晋王としてこれを継続、唐の太祖・太宗もこれを保護し続けたようで、中国歴代王朝の皇帝が自ら開鑿に関与していた貴重な石窟であると言える。
石窟は、天龍山の東峰、西峰を中心として、他に北側と寺の西側に若干残っている。
石窟内部は概ね全て方形であり、過半数が3壁3龕式(入り口を除く3方の壁面に仏像を掘り込む形式)になってる。
石窟に刻まれる仏像は、北魏が2大石窟(雲崗・龍門)を開鑿して以降、徐々に印度様式から中国式への変遷を見て取る事が出来るけど、この天龍山石窟の頃に概ねその後の中国式石窟仏像の様式が定まったと言われており、これらは一般に「天龍山様式」と呼ばれている。
現存する石窟は全部で25窟あり、500余りの仏像が彫られている。
大半が唐の時代のもので、最大の現在は漫山閣に覆われた第9窟(左写真)が五代の開鑿、東魏の窟は第2窟と第3窟、北斉の窟は第1窟、10窟、16窟である。
第9窟の漫山閣は中に入って登る事が出来、写真のように巨大な仏像(約8m)の頭部を間近に見ることが出来、さらに下部の11面観音像を上から見下ろす事が出来る。なかなか他の場所では見られないアングルである。
現在の三層四重の漫山閣は1986年に再建されたものだが(従って、少し古いパンフレットやガイドブックの写真では、第9窟の大仏が露出して写っている)、北漢時代に弥勒大閣という名前で楼閣があり、明正徳初年(西暦1505年)に概ね現在のような楼閣が建設されたようだ。
東魏の丞相高観(北斉皇帝高祥の父)がこの地に避暑宮を造営し、それに併せて石窟を開鑿したのが始まりと言われている。
この天龍山石窟は、東魏(西暦534年~550年)の頃から北斉を経て、隋、唐の時代に最盛期を迎え、五代のころまで通算約500年に亘り開鑿され続けた。
東魏の丞相高観が開鑿を開始した後、その子である北斉皇帝高祥は今の晋祠に晋陽を別都と定めて開鑿を継続し、隋の煬帝も晋王としてこれを継続、唐の太祖・太宗もこれを保護し続けたようで、中国歴代王朝の皇帝が自ら開鑿に関与していた貴重な石窟であると言える。
石窟は、天龍山の東峰、西峰を中心として、他に北側と寺の西側に若干残っている。
石窟内部は概ね全て方形であり、過半数が3壁3龕式(入り口を除く3方の壁面に仏像を掘り込む形式)になってる。
石窟に刻まれる仏像は、北魏が2大石窟(雲崗・龍門)を開鑿して以降、徐々に印度様式から中国式への変遷を見て取る事が出来るけど、この天龍山石窟の頃に概ねその後の中国式石窟仏像の様式が定まったと言われており、これらは一般に「天龍山様式」と呼ばれている。
現存する石窟は全部で25窟あり、500余りの仏像が彫られている。
大半が唐の時代のもので、最大の現在は漫山閣に覆われた第9窟(左写真)が五代の開鑿、東魏の窟は第2窟と第3窟、北斉の窟は第1窟、10窟、16窟である。
第9窟の漫山閣は中に入って登る事が出来、写真のように巨大な仏像(約8m)の頭部を間近に見ることが出来、さらに下部の11面観音像を上から見下ろす事が出来る。なかなか他の場所では見られないアングルである。
現在の三層四重の漫山閣は1986年に再建されたものだが(従って、少し古いパンフレットやガイドブックの写真では、第9窟の大仏が露出して写っている)、北漢時代に弥勒大閣という名前で楼閣があり、明正徳初年(西暦1505年)に概ね現在のような楼閣が建設されたようだ。
中国語名:
天龙山石窟(tiān lóng shān shí kū)中国語名の読み方:
ティェン ロン シャン シー クー英語名:
Tianlongshan Grottos
天龍山石窟の写真
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