お客様の声
2016年6月18日
トングリ砂漠 報告書
- 中国人達と歩いた60Km/3日間 -
大谷和男
1.はじめに
2014 年 5 月にバダインジャラン砂漠、2015 年 5 月にタクラマカン砂漠探検を敢行した。バダインジャラン砂漠では、砂まみれになり砂漠を歩き、美しい湖を眺め、標高差 250m 程度の砂山を登るのも大変で大汗をかいて登る等の体験が出来た。タクラマカン砂漠では、新疆ウイグル自治区での行動の不自由さはあったが、ケリア人の郷を訪問することができた。
今回は、政情が不安定な新疆ウイグル自治区は避け、バダインジャラン砂漠近くの内モンゴル自治区のトングリ砂漠へ行くことにしたが、今回はいつも私の勝手な旅を手配してくれている旅情中国の邹さんに中国人のツアーに入ることを勧められ、中国人のツアーに入ることにした。上海駐在員時代に中国の会社の社内旅行で団体で中国人と旅をしたことを思い出し一抹の不安を覚えたが、たまにはこういうのも面白いだろうと開き直り出かけることにした。中国で4番目に大きいトングリ砂漠を中国人達と歩いてみるという旅に出た。
2.トングリ砂漠ツアーの構成メンバー(大谷以外は全て中国人の総勢 78 人のグループ)
・主催している会社:呼和浩特市龙腾户外运动策划有限公司(简称:龙腾户外)
・スタッフ:3 名(リーダー:温永勝:漢民族で内モンゴル自治区の人)
・準スタッフらしき人:2 名
・ドクター:1 名(英語話せる)
・カメラマン:2 名(馬国強という回族の人が少しの日本語、英語が話せる)
・コック:2 名
・トラック:1 台(キャンピング道具、食糧、参加者の荷物の運搬)
・4WD 車:3 台(ドクター、カメラマン、救護)
・グループ A(約 40 名):中国のある会社がチャレンジ研修として参加した怪しげなグループ
・グループ B(約 30 名):大谷が参加した一般公募グループ
3.行程
<トングリ砂漠とは>
トングリ砂漠(騰格里-)は、中華人民共和国内モンゴル自治区アラシャン盟から甘粛省中部にかけて広がる砂漠。面積は約 3 万 7 千平方キロメー
トルで、中国で 4 番目に広い砂漠である。トンゴリ砂漠、テンゲル砂漠などとも言う。
東は賀蘭山、西は雅布頼山、南の一部は万里の長城と接する。砂漠の平均標高は 1,200m と高い。
「トングリ」はモンゴル語で果てしなく大きな空を意味する。
砂漠の約 7 割は砂丘が占め、砂丘の中に湖を有した窪地、山地、平地などが点在している。砂丘の多くは三日月形に湾曲した形状で、固定・半固定の砂丘は少なく、風向きの影響で南東方向に移動することが多い。
砂丘の高さは 10~30m のものが多いが、100m に達するものもある。
また、砂漠の南西部は植物の生育が見られ、マオウやヨモギが点々と生えている。砂漠の中にある湖の数は 400 以上に上るが、大きさは大小さまざまである。淡水湖が多く、湖の周りはヨモギが生育しており、家畜の餌になるので遊牧の拠点となっている。
4.行動の記録
2016.4.29(金) 上海:晴れ
*成田(9:45)-上海浦東(12:00 / 15:50)-銀川(19:10 / 19/30)-ホテル(20:10)
今回は一人旅だが、砂漠では中国人の集団に入ることになる。また、後半は上海駐在員時代に住んでいた上海・青浦区のホテルでゆっくり過ごすことにしている。思えば中国勤務から帰任して 8 年の歳月が経っている。もし今年 3 月に会社を辞めていたらこの GW に中国へ行くことはなかったであろうと思うと、これが中国へ行くのも最後かもしれないと思ったりもした。しかし人生いつどうなるか分からない。今回の旅もそうだが、「なるようになるさ」で行くしかない。やりたいことは、何事も後回しせずに、できるチャンスがあるときに実行しておかないと後悔することになると思いながら日本を出発した。
浦東空港ではまず両替。1 元=17.94 円(手数料込み)で元を手に入れる。予想通りの悪いレート。上海駐在員時代は 1 元=13~14 円だったが、
今のこのレートは仕方がない。第 2 ターミナルに移動し、銀川行きの便に乗る。吉祥航空という初めての航空会社だが食事の量が多かった。座席のシートにあった雑誌には何と日本特集があり、京都や大阪が特集されていて若い女性がきれいな着物を着ている姿やレストランや薬等の日本の人気商品が写真入りで紹介されていた。日本に爆買いに来
飛行機内の雑誌
る人必見といった感じの内容だったのでつい写真を撮ってしまった。
銀川空港からホテルまではタクシーで行く。タクシーの運転手にどこから来たのかと聞かれたので、日本人だと答えるとやや驚いたようだった。空港は黄河の東側にあり、黄河を渡るときタクシーの運転手はこれが黄河だと説明してくれた。タクシーに乗ったのは夜の 7 時半だったがまだ明るかった。この辺りは夜 8 時頃までは明るいらしい。
ホテルにチェックインするとフロントに今回の砂漠ツアー会社の人達がいた。そこで今回のリーダーの温永勝さんに初めて会った。温さんはいつもニコニコしている人で、その後も親切にしてくれたとても気持ちの良い人だった。温さんは日本語が話せる友達がいるらしく、その人にすぐに電話をして私に必要事項を伝えようとしてくれた。邹さんから頼まれた荷物の受け渡しや邹さんへの支払いは明日10時ということを確認し、温さんと別れた。ホテルは格林豪泰銀川北京路快捷酒店という名前で、お湯も出るし比較的整っているホテルだった。ホテルのすぐ近くにはスーパーがあり、冷えたビールが売っていたので買ってきて部屋で飲んだ。西夏ビールという地ビールで、冷えていたので美味しく感じた。銀川は思ったより都会のようだ。
4.30(土) 銀川:曇り
*銀川滞在 トングリ砂漠は内モンゴル自治区だが、銀川は寧夏回族自治区になる。地図を見ると南北に長い形で、北部は内モンゴル自治区に突き刺さるような形になっている。銀川市は寧夏回族自治区の北部に位置し、トングリ砂漠は銀川市の西部になる。今日はトングリ砂漠に入る前に、寧夏回族自治区の勉強をする日となる。
ホテルではゆっくり眠れそうな気がしたが、外が以外に煩く夜中によく起こされた。しかし、よく考えてみれば、これは中国ではよくあることである。全く日本は静かだと思う。 朝 7 時過ぎに食堂に行くと混雑している。よく見ると、これから砂漠に行く様な格好をしている人ばかりだ。若い人が多いし女性も多い。トングリ砂漠は人気で砂漠ツアーは流行っているのかもしれないと思った。中国人は自然よりも人工物が好きだと思っていたが、最近変わってきたのであろうか。
10 時にこのホテルのチェックアウトを済ますと、温さんが隣のホテルから迎えに来てくれた。隣のホテルへ移動すべく温さんと隣のホテルへ行ってみるが、何と隣のホテルでは日本人を泊められないらしい。日本人だけが泊められないのか外国人全てなのかよくわからないが、これもよくあることである。結局、元のホテルに戻った。
新しい部屋に荷物を置き、温さんから「夜7時半から参加メンバー皆でこのホテルの2Fの食堂で夕食会がある」という連絡事項を聞き、邹さんに頼まれた荷物(日本製化粧品)と邹さんへの支払金額を温さんに渡した。これで今日は夜 7 時半まで自由になる。
地図を見るとホテルのある北京東路を中央に向かっていくと人民広場に出るはずなので、まず人民広場を目指して歩く。歩行者用の信号が変わるのが早すぎるので、道路の横断は素早く歩かなければならない。中国は確かにこの傾向はあるが、これだけ歩行者用信号が青の時間が短いとお年寄りや体の不自由な人はとてもきついだろう。ツアーが終わった後、食事に行くのに一緒に歩いた上海から来た人も驚いていた。同じ中国とはいってもここは少数民族の自治区なのでか随分違う気がする。
人民広場は地図を見て予想したより遠かった。やっと人民広場に着くと、人民広場の広さをまず感じたが驚くべきことに毛沢東の像が立ってない。寧夏回族自治区の回族のリーダーと毛沢東が握手する像が立っているのではないかと予想していたが、ただ広い広場では凧揚げをしている人がいるだけだった。この日はやや風が強く黄砂も少し舞っているようで道路では水が撒かれたりしていたが、凧揚げには絶好の日のようだった。日曜日で土産物屋も出ていたが人は少なく閑散としていた。
人民広場は面白くなかったが、近くに博物館を発見。博物館で勉強することにした。入場は無料で、区の中心に位置する大きな規模の博物館では無料というのも珍しい気がした。歴史に関する部分を中心に見学。やはり黄河流域のこの辺りの歴史は古く、象形文字に発展する前の動物等の絵が刻まれた岩や石等の展示、土偶のような写真の展示が印象的だった。漢の時代のものも目立ったが、項羽と劉邦の時代は新しいと言わざるを得ない。
すっかり昼食の時間を逃してしまった。人民広場周辺は食事ができる店がない。仕方ないので歩きながら屋台で買った寧夏餅とかいうものを食べたが、甘くてあまり美味しくなかった。ビールが飲みたくなったのでホテルに戻ることにした。バスに乗りホテルの近くで下車し、冷えた缶ビールを売っている店を探すとすぐに見つかった。結局、ホテルの近くの方がスーパーなどもあり便利だった。
夜7時半の食事の時間になりホテルの食堂に行く。邹さんから聞いていた日本語が話せるツアーの参加者の唐史雯(tang shi wen)さんに会った。女性二人でこのツアーに参加したとのこと。協和発酵麒麟(中国)製薬有限公司に努める 30 歳の上海出身の独身女性だった。それほど自由に日本語が話せるわけではないが心強い限りである。日本から持ってきた私が書いた 2 冊の本(上海駐在員が歩いた中国、続・上海駐在員が歩いた中国)をプレゼントした。彼女は会社の研修や旅行で、日本の三島や九州、京都、大阪などに行ったことがあるという。京都が好きらしい。 ここに集まった人は約 40 人。明日他から来た人が合流して 78人になるという。砂漠を歩きたいという中国人がこんなにいるとは不思議な感じがするが、今までアウトドア派の中国人に巡り合うことがあまりなかったせいかもしれない。ここに集まっている中国人たちは皆歩くことが好きな人らしい。それにしても若い人が多いし女性も多い。
英語で話しかけてきた人がいた。同行するドクターだった。この人は日本へは行ったことはないが、この人の師が日本に6年間いてドクターを取ったと言っていた。
主催者の冒頭の挨拶で「今回は日本人も迎え…」と言ってい
食事会、左:唐さん
るのが分かった。食事にはビール、白酒が出た。唐さんや近くの人と話をしながら白酒を飲んだ。適当に飲んで食べているとだんだん人が減り、最後15人位になった。唐さんも部屋に戻った。誰かが年齢を聞いてきたので56歳と答えると、私よりも歳が上かと思われた2人は共に1歳下で、私が今回のグループに中で最も年上ということが判明した。
少しがっかり。
部屋に戻ると温さんがストック、スパッツ、人形(この会社のシンボルマークらしい)を届けに来てくれた。全く至れり尽くせりのツアーだ。上海駐在員時代、よく中国人も日本人もないと言って仕事をしたことを思い出した。これから言葉は十分に通じなくても人間対人間で接することが重要だ。
5.1(日) 曇り(風やや強し)
*ホテル(8:00)-天鷲湖接待センター(10:45 / 11:30)‐1355m 前後を進む-C1・1390m(16:40) 慌ただしく朝食をとり荷物をまとめて外へ出るとバスが 2 台来ていた。大きい方のバスには既に人が乗っていた。後で知ったのだが、チャレンジ研修として参加していた中国の会社の人達だった。砂漠を歩きたくて来た人達ではなく、無理やり連れてこられたのかもしれない。砂漠では整列して点呼するなど軍隊のような行動をしていた。
我々はやや小さい方のバスに乗る。水(PET ボトル)を 4 本もらいバスの乗ると、既にかなり席は埋まっていて、空いていた最後尾の窓際に陣取る。後から来た唐さん達も最後尾で隣に座ってくれた。外を見ていると、今日は曇りで日差しはないが風がやや強く細かい砂が舞っている感じだった。砂漠で風が強いとすぐに砂まみれになってしまうので、風が強くならないことを祈る。
出発してしばらくすると温さんがマイクを持って挨拶、注意事項の説明のようなものを始め、それが終わると一人一人の自己紹介が始まった。順番に前に出てマイクを持って自己紹介をやる。中国人は人前で話すことが好きらしく皆雄弁に見える。私は中国語を随分忘れてしまったが、今覚えている中国語を総動員して話す内容を考えた。そして唐さんの後自分の番になった。唐さんが通訳ということで隣に立ってくれたが、私は中国語で自己紹介をやった。まず「ダージャーハオ」というとそれだけで歓声が起きた。まず日本人であること、趣味は登山、トレッキング、一人旅であること、年齢、仕事の内容(ここで少し英語を交えたが日本語は一切使わなかった)を話し、最後によろしくお願いしますとして終えた。最後に唐さんが「彼は四娘姑山にも登った強い人」だと付け加えてくれた。皆の反応は良かった。途中で「中国は好きか?」と聞かれたので「好きだ」と答えた。やはり中国語でやってよかったと思う。実際砂漠の中でもよく話しかけられたし、何人かの人は自分に興味を持ってくれた様子だった。
天鷲湖接待センターという砂漠ツアーの出発地点に着くと、昨日もらったスパッツを付け、またストックも持って出発。ストックは良い感じだがスパッツは装着し難さを感じた。やはりというかスパッツは一日でファスナーが壊れたため翌日からは日本から持参したスパッツが活躍した。
この日は太陽の日差しはなく曇り。風が強かったので皆それぞれの手段の砂除けで顔を隠しているので誰が誰だかさっぱり分からない。私は野球帽の上にカッパのフードをかぶり、バンダナを首に巻き風が強いときは鼻と口を覆えるようにして歩いた。暑がりの私は他の人よりも軽装備のためか砂がよく入ってきたが、過去に二度行った砂漠でもそうだったし、これは仕方がないことと思い諦めた。時々標高を確認したが、大体 1350m 付近を進んでいる。フカフカの砂の上のアップダウン進む。消耗しないようにできるだけ一定のペースで進むことを心掛けたが、中国人たちは顔を隠していてもお互いの写真を撮り合うことに熱心で、はしゃぎまくっている。このような光景は驚くべきことではないが、やはり中国人らしい光景だなと思ってしまう。
カメラマンは馬国強という名で回族の 25 歳。ムスリムなので豚肉は食べないが酒は飲むという。唐さんよりも日本語はうまいし英語も話せるのでコミュニケーションが取り易い。日本のアニメが大好きでアニメから日本語を勉強しているらしい。今回はツアー参加者たちの写真を撮る仕事をしているが、ドローンを飛ばしての撮影技術に長けている。
C1 がこの場所になったのは、良い水があることを知っていたためであろう。食事は大なべで作った肉ジャガのようなものと白米。馬さんは「私はこんなものは食べない」と言って丘の上に行ってしまった。豚肉を食べないことを実践している。
皆、砂漠の上で立ったまま食事をしたが、昨夜も一緒だった人に「大谷、マオタイ酒を飲め」とマオタイ酒を勧められたのでありがたく飲んだ。昨夜白酒を飲んだので、それで勧められたのだと思うがありがたいことだ。
C1 について分かったが四駆が 3 台にトラックが 1 台の構成で、トラックにはテントや我々の荷物が積まれ四駆には医者とカメラマンが乗る。歩けなくなった人を乗せるのにも使うはずだが、時々乗る人はいても最後まで乗り続ける人はいないようだった。参加者は皆歩くことには自信のある人ばかりらしい。
夜 8 時にテントに入ると雨になった。雨は珍しいのではないかと思うが、これは天気が変わることを意味しているものと思われる。天鷲湖からは音楽が聞こえてくる。キャンプをしている人達が騒いでい
るのであろう。明日好天になることを祈り、日本から持ちこんだ CHIVAS REGAL を飲んで寝た。
5.2(月) 晴れ(風弱く絶好の天気)
*C1・1390m(8:05)-蘇海図湖-烏蘭湖(12:30 / 13:15)-農家-C2:太陽湖(16:40)
出発はやはり予想通りの 30 分遅れとなった。まず、軍隊のような会社の研修の人達が整列して点呼した後歩き出す。我々はその後を適当に歩いていく。雨降って地固まり風もなく澄んだ空気の中を気持ちよく出発した。とても歩きやすい。
今日もイーブンペースを守りながら歩くが、陽が低い時間帯はシャッターチャンス。つい写真ばかり撮ってしまう。中国人達もよく写真を撮るが、景色を撮るというよりも奇声をあげながらポーズをとってお互いに写真を撮り合っている。それも何度も何度も。風景写真を真剣に撮っている人は少数派に見える。中には風景写真を三脚を使って撮っている人もいるが、圧倒的に賑やかな人達が多い。また黙々と歩いてはいるが、歌謡曲のような音楽を鳴らしながら歩いている人もいる。そのような人達から少しが続いたが、間もなくまた砂漠のアップダウンが続くコースに戻り、そこを我慢して歩くと太陽湖と思われる湖が見えてきた。その瞬間、我々のグループの先頭を歩いていた人が大声を出したので C2 の太陽湖がすぐであることを確信した。思ったよりも早く着いた。天候や下が硬かったなど、コンディションがよかったということだと思うが、実際は 30Km もないのではという気がした。後で述べるが、明日の 3 日目が実際の予定より長く思われ、
3 日で 60Km は正しいのであろうが、2 日目と 3 日目の配分がやや違っているように思われた。
C2 ではまたすぐにテントを張りブラブラしているとカメラマンの馬さんと話す時間になった。改めて色々話を聞いた。彼は寧夏の人で地元の大学を出ている。文系だが写真に興味がありカメラマンになったという。ドローンの操作は上手だ。髭をはやしているのは「若く見られると仕事が入らないので」と話していた。確かに 25 歳には見えず 30 歳代に見えた。日本のアニメでは宇宙戦艦ヤマトが好きだと言っていた。またアニメではないがウルトラマンシリーズも好きだと言っていた。
夕食は白米に羊肉スープをかけたもの。羊肉なのでムスリムの馬さんも食べられる。砂漠に敷いたシートの上に座って食べた。そしてすぐに宴会となった。四川省の人が持ってきた白酒を飲み、それが無くなるとどこからかビールが出てきて飲んだ。一応キャンプファイヤーということで、焚火の周りで人が歌って踊っていたがよく覚えてない。会社の研修で参加していた人達が楽しんでいたらしい。酒を飲めば、訳の分からない演説を始める人はいるし、どこの国でも同じである。
テントに戻るとすぐに寝てしまった。夜中にトイレに起きると星がきれいだった。しかしよく覚えてない。
5.3(火) 晴れ(風弱い)
*C2・太陽湖(8:20)-月亮湖手前(9:45 / 10:30)
-月亮湖接待中心(15:00)-ホテル(18:30)
5時 40分に起床。日の出を見てテントをたたむ。朝食はうどんですぐ食べられるが、今日も出発に時間がかかる。やっと出発したと思ったら、集合記念撮影が始まりまたそれが時間がかかる。
太陽湖を右手に見ながら歩く。昨日は気付かなかったが、太陽湖はなかなか大きい。傾斜が急な砂山を幾つか登り急な斜面を一気に下るといった感じで進むと月亮湖が間近に見えるところへ出て、そこで大休止。比較的前の方を歩いていたのだが、最後尾がなかなか来ない。疲れている人も多いのだろう。30 分以上の差が付いていた。
コーラを飲んでいたが、ビールがあったので私は迷わずビールを買い一気に飲んだ。冷えは不十分だったが旨かった。
帰りのバスではさすがに皆静かだったが、主催者側の温さんから一人づつ「完歩賞」を手渡す作業が始まってから一変した。名前を呼ばれバスの中の前方に出て「完歩賞」をもらうと、一人一人マイクを持って挨拶をする。帰りも中国語で挨拶しなければならなくなったので、私は中国語で話す内容をひたすら考えた。そして自分の番が来た。私は、「マオタイや白酒がとても美味しかった。ありがとう。今とてもうれしい。皆さん、本当にありがとう。」といって「完歩賞」をもらった。すると「徒歩中国」の人が出てきて、「徒歩中国」の旗を持つように言われ、その旗を持たされて写真を撮られた。撮影が終わるとその旗はプレゼントすると言われたので素直にありがとうと言って受け取った。最後まで良好な関係は保てた。「完歩賞」はよく見ると「3 日間で 60Km 完歩達成、今後も激励する」と書かれていた。 バスはホテルに戻り解散となった。唐さんから皆で食事をする旨を伝えられていたので、集合時間までの間に手早くシャワーを浴びた。なぜか急に下痢になった。途中でもらって食べた胡瓜かトマトが原因かもしれないと思ったがよく分からない。 お腹の調子が心配だったが、食事の場所で初めに「この地域で有名なヨーグルト」ということでヨわった、日本の京都や東京に桜を見に行ったことがあり日本が好きだ」等であり、私は素直に喜んだ。隣に座っていた温さんからは「大谷が好きだ」と直接言われたので私も「温さんはとてもよい人だ」と返した。本当に温さんは、何も悩みがない人のようにいつもニコニコしていて人が良い。
気が付くと 20 人位いた人は徐々に減り 5 人位になっていた。結局、日付が変わるころホテルに戻った。通訳をしてくれた唐さんにお礼を言って別れた。唐さんは明日の夕方の便で上海に戻るらしい。私は明日の昼の便で上海へ行く。 完歩賞
5.4(水) 晴れ(上海は暑い)
*ホテル(9:30)-銀川空港(10:00 / 12:10)-上海・浦東(13:00)-青浦(18:00)
上海駐在員時代に住んでいた上海市青浦区へ向かう。私はかつて東原大厦という長期滞在できるホテルに住んでいたが、そのホテルに泊まることにしている。上海駐在員を終えて日本に帰任してから 8 年、このホテルに泊まるのは 4 年ぶり位かと思う。上海からの地下鉄も延びて、来年には青浦にも駅ができるという。随分変わったと思う。あの頃が益々夢のように思える。
しかし、ホテルに着くと受付の女性は昔からの人で変わってない。お互い懐かしくつい握手してしまう。またガードマンや部屋の掃除のおばさんも昔からの人で、私のことをよく覚えていて、「久しぶりだな、元気か、仕事できたのか」等と話しかけてくれる。全くうれしいものである。やはりこのホテルは自分の家のような気がしてしまう。
夜、かつて通っていた日本料理屋を探したが無くなっていた。しかし近くに新しくできたと思われる日本料理屋に行き久しぶりに生ビールを飲んだ。感無量。
この店で一人の日本人と知り合った。中央工産株式会社の齋藤社長で、私が青浦に居たころから同じ東原大厦に住んでいたという。青浦から日本人はずいぶん減ったという。東原大厦には今でも青浦に工場のあるミネベア株式会社の日本人が多く住んでいるが、昔はもっと日本人が多かった。
5.5(木) 曇り時々雨
*青浦滞在 青浦は水郷が多く、駐在員時代は休みになるとよくバスに乗り出かけた。気に入っていた水郷に上海の農民画で有名な楓涇というところがあり、まずそこへ行くことにした。昔のようにまず青浦中心部を走るバスに乗って青浦バスターミナルへ行って、そこでびっくり。バスターミナルの場所も乗り方も変わっていた。昔は上海市内へ行くバスも広いスペースにそれぞれの行先のバスが止まっていて乗る方式だったが、上海市内に行くバスは長距離バスのターミナルの前で、どこからか来るバスを待って乗る。そこで楓涇行きのバスを待ち乗り込み終点に着いてバスを降りると、どうも勝手が違う。しばらく歩くと、かつてのバスターミナルの場所とは全く違う場所であることに気付く。近くを歩いていたおばさんに聞いてみると楓涇小古鎮は遠いらしい。タクシーもまったく走ってない。バスターミナルに戻って地図を買おうと思ったが売ってない。そこで強い雨が降ってきた。傘もない。雨がひどいので動く気もなくなりバスで青浦に戻った。外を見ていると、終点の少し手前で降りれば何とかなったようだったが、雨がひどいので降りなかった。
5.6(金) 晴れ時々曇り
*青浦滞在 今日は私が最も気に入っていた金澤という水郷に行く。昨日と同じようにバスに乗り終点で降りると、ここはほとんど変わってなかった。相変わらず観光化されてない普通に人が住んでいる水郷の街の中を歩きながらうれしくなった。やはり田舎は簡単には変わらない。青浦は上海市の田舎と言えるが、ここはさらに田舎なのでまだ変化の波が来てないらしい。気分よく昔のように蘭州ラーメンを食べて青浦に戻った。
夜は駐在員時代に働いていた上海昭和高分子有限公司のかつての部下たちと大人数で会食した。皆懐かしい人ばかりで一人一人肩を組んで写真を撮った。そして白酒での乾杯が始まり気分良く飲んだ。普通中国では二次会にはあまり行かないが、この日は皆気分が良かったらしく、また週末ということもあってか二次会まで行った。かなり酔ってホテルに戻った。
5.7(土) 晴れ
*上海・浦東(14:05)-東京・成田(18:05) 二日酔いの中、無事帰国。
5.今回の旅を振り返って 今回訪れたトングリ砂漠自体は、観光客の多いところだった。そういう意味では面白くなかったが、確かに長い距離は歩いた。砂漠は 3 回目で慣れてきた感じがする。悪くしている膝にも優しいことも確か。景色は初めて行ったバダインジャラン砂漠に近い感じだった。360 度眺めても砂丘と空しか見えないという景色は日本ではない。風さえ吹かなければ空気はきれいだし、快適で気分よく歩ける。
そして今回は何と言っても中国人ツアーに参加したということが一番の特筆すべきことである。参加者は中国では少数派の歩くことが趣味の人達なのかもしれないが、皆歩きには自信がある様子だった。私は、この砂漠が多くの人が入る地域のようだし、これだけ多くの人数で入るのでピクニック気分になっていたが、中国人達からは「この日本人は本当に歩けるのか」というように見られたような気もする。砂漠の終盤や終了してから「お前は強いな」と何度も言われた。
この集団で行動している間、私は上海で駐在員として現地法人で仕事をしているときのことを思い出した。自分は日本人の代表で、自分を通して日本人が評価されてしまうということ、仕事では中国人も日本人もなく同じ人間として進めないといけない、といったことである。そのような思いを根底に持って行動したが、中国人達とはとてもよい関係が築けたようだった。
今回も旅を手配してくれた邹さんとは、帰国後に以下のようなメールのやり取りをした。邹さんも喜んでいる様子が分かる。
<邹さんとのメールのやり取り>
大谷さん昨日から本を読み始めました。お書きの本から大谷さんが中国に対しての態度が昔の本より変わってきましたね。少しだけを読みましたので全部読んでからまた本について自分の考え方を言います。
前日の砂漠団体の写真を見て、大谷さんは本当に楽しそうだと思って、それじゃ、これからこんな団体のツアーを探して費用は本当に何倍も節約できるので、以上、よろしくお願いいたします。 ZOU JING 邹さま今回のツアー内では外国人(日本人)は私一人だったので、上海で仕事をしていた時のように特に中国人とか日本人とかは意識せず人間として接したつもりです。
リーダーの温さんもとても良い人で出発前夜の食事のときには溶け込むことができました。
唐さんにも気を使っていただき助かりました。
バスで砂漠の出発地点に移動中には一人一人マイクを持って自己紹介が始まったのですが、私も何とか中国語で自己紹介をしました。中国語も随分忘れていて自信はなかったのですが、何とかしました。
砂漠ではテントの撤収に慣れてない人を手伝ったり、食事で一緒に白酒を飲んで楽しみました。
また、砂漠ではカメラマンの馬さんが日本語と英語が喋れたので親しくなりました。
私のためにわざわざ編集した動画を送ってもらいました。
砂漠での行動中も何人かの人と親しくなり、帰りのバスの中で一人一人マイクを持っての挨拶では、また何とか中国語でやったのですが、参加者から「徒歩中国」という小さな旗をもらいました。
ツアー終了後の20人程度で行われた食事会にも呼ばれ最後まで楽しい時間を過ごしました。
中国人との団体旅行は、上海で仕事をしていたとき経験していたので予想した通りでしたが、最後に寄った上海・青浦でも昔の自分の部下達と白酒を酌み交わし、また昔よく歩いた地域を歩きとても懐かしくなりました。
ZOUさまのお陰でとても良い旅ができました。
本当にありがとうございました。
大谷大谷さん大谷さんのお書きの下記のメールをもう砂漠クラブに送信しました。トングリ砂漠の観光は楽しそうで、中国人の中に溶け込んで本当に嬉しいです。
動画注)もよく見ました。ところでツアーに使用させていただきたいですが。
トングリ砂漠写真をメールで送信してくださいますようにお願いいたします。
ZOU JING 注)帰国後カメラマンの馬さんが私のために編集して送ってくれた動画
https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-ygsomf6nz2wxx5nor4jqryalva-1001&uniqid=63c7254b-0720-4717-8eed-f0f3261d157a&viewtype=detail
私にとって第二の故郷とも言える青浦訪問では、かつて一緒に仕事をした懐かしい人達とも会い、楽しい一時を過ごした。中国人達と行動した砂漠でも上海駐在員時代に考えていたことを思い出して中国人達と接したが、あの頃が完全に蘇った感じがした。自分が中国で肝に銘じてきたことも鮮明に思い出すことができたとてもよい旅だった。
最後に、通訳ということで気を使ってくれた唐さん、私のために動画を送ってくれたカメラマンで回族の馬さん、主催者側の温さん、その他私に気を使って頂いた全ての中国人に感謝したい。
終り
- ツアーはご要望どおりアレンジ可能!
- 日本語ガイドと専用車付き!
- ご旅行代金は現金払いOK!
- 中国現地旅行社、最低価格保証!