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大沽口砲台遺跡

大沽口砲台遺跡は天津市より東南へ約45キロ、塘沽区を流れる海河の河口部にあたる大沽口に築かれて、塘沽開発区と隣接し、面積約93.8
ヘクタール、塘沽区中心より約8キロ、古代の天津の海防の要所である。
明代に大沽口で海防を設立され、設備などは充実しつつあり、だんだん“威、鎮、海、門、高”を主なにする完璧な海防設備になり、西洋列強の侵略のほうから大沽口は北方の重要性な軍事要地になっていた。南の虎門、北の大沽は中国近代の大切な海防障壁になる。
明初、永楽皇帝朱棣は応天府(現在の南京)から京師(現在の北京)に遷都した。大沽口海防の戦略位置はもっと強化されて、海から京師に入れる唯一の入り口になる。
嘉靖年間設備は再度強化され、軍隊を駐屯し。1816年清政府は大沽口南北両側でそれぞれに円形にする砲台を築かれ、砲台の内には木造、外に青レンガ造り、これは大沽口の一番早い砲台である。
1841年数年建てて、大砲台5箇所、土砲台12箇所、土堡塁13箇所、大砲台群になる。もう大沽口砲台遺跡の最初の形態が現れた。
1858年欽差大臣僧格林沁は大沽口関所を守り、砲台を修繕、砲台5箇所を再建(3箇所は南の岸、2箇所は北の岸)それぞれに“威”“震”“海”“門”“高”五文字で名づけられた。
1875年清政府は再度砲台を建て増し、ヨーロッパから鉄甲板の舟、水雷舟などの舟を購入し、この時は配備から実力が強大であることがわかった。
1840年~1900年の60年間、外国列強は1858年、1858年、1860年、1900年4回も大沽口に侵された。
1997年7月1日天津市人民政府は“威”砲台遺跡に基づいて、大沽口砲台遺跡記念館を拡大され、中国愛国教育重要な基地になっている。全国重点文物保護単位になる。
中国語名:
大沽口炮台(dà gū kǒu pào tái)
中国語名の読み方:
ダー グゥ コウ パオ タイ
英語名:
Dagu Kou Emplacement

大沽口砲台遺跡の写真

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