恒山游覧区

恒山は「塞北第一の名山」との美称があり、人々は北岳と呼び、東岳の泰山、南岳の衡山、中岳の嵩山とともに五岳と称されている。恒山は北方に位置し、古人は北方は万物が伏す恒常のところと考えたことが恒山の名の由来。 
恒山山脈は山西省北部と河北省北部にまたがり、東西に延々250km続き、秀麗な108の峰がある。 主峰は山西省渾源県に位置し、海抜2017m、非常に雄大で「絶塞の名山」と称されている。その特殊な軍事戦略的位置から、歴代の軍事専門家から重視され、後に歴史的経験として「代国は恒山に依存して天下に残り、燕趙は恒山に依存して天下を立て、匈奴は恒山に依存して天下を争い、普慕容は恒山に依拠して天下に威を張り、拓跋氏は恒山を持って天下を分けた」と総括しており、これは恒山の軍事的価値を十分に証明するものである。恒山には漢代に廟が建立され、清代初めまでに主峰の周辺だけでも60数カ所に各種の寺院や廟が建てられた。 「三寺四祠七亭閣」とか「七宮八洞五廟」とも言われ、非常に壮観で大規模な古代建築群が形成され、道教文化の雰囲気も非常に濃厚だった。玄妙で古い中国道教は恒山に歴史の転換を経た足跡を残している。太上老君は千仏嶺で不老長寿の丹薬を作る。前漢の皇帝、宣帝年間、三茅真君(即ち茅盈、茅固、茅衷の兄弟三人)は神仙の術を修練し千年も聞かない三茅窟を残す。  
北魏時代、太武帝に天師として崇められた冠謙之は道教の新法を宣揚し、その弟子の李皎は嵩岳から恒山に身を寄せて修練を積み、線香を上げ、一時極めて栄える。唐代、八仙の一人である張果老はここで修練し、恒山道教の道場の名を天下に広める。  
天峰嶺と翠屏峰は、恒山の東西の主峰である。互いに向き合い、断崖と緑帯、それぞれに層が鮮明で、絵巻のように美しい。峰の間の渓谷は静寂で、絶壁が両側に立ち、石が青空に挟まれているかのようで、最も狭いところでわずか10m。ここは昔も今も天険であり、交通の難所でもある。217年秦の始皇帝は恒山を祭るために、ここを通った際、舞い上がる巨大な竜、口をあけて急速に流れ落ちる飛瀑を目にし、この真に迫った「巨大な竜が滝を吐く」様子は始皇帝を驚嘆させて止まなかった。「依然として神の竜なり」。後の人は崖に「金竜口」の3文字を刻んだことから、この渓谷は金竜峡と呼ばれるようになった。  
北魏の時代、道武帝は兵士数万人を派遣し、山を切り開いて道を作り、中原に出入りする門とした。宋代には、楊業父子は懸崖を背に警備に当り、外部からの民族の侵入に抵抗した。  
「虎口懸松」や「果老仙迹」などは恒山の古代十八景であり、18副の美しい絵巻のごとき、観光客の足を止め、世を離れた桃源郷にいるかのように思わせる。
恒山の見所:恒宗殿、飛石窟、果老嶺、琴棋台、九天殿 
中国語名:
恒山游览区(héng shān yóu lǎn qū)
中国語名の読み方:
ホン シャン ヨウ ラン チュイ
英語名:
Heng Mountain

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