華清池

華清池は西安から東に30キロ離れた驪山の麓にあります。驪山は海抜1256m、風景秀麗なところで、三千年前の西周時代からの温泉の湯元があります。そのため、ここは歴代の帝王が享楽に耽った所でした。西周時代末期の周の幽王はここを驪宮として時々愛妃褒似を伴なって酒宴をしていました。秦の始皇帝がこの温泉に入ったと言う話も広く伝えられています。唐の玄宗皇帝が747年にこの温泉地に造営した本格的な宮殿式建物は「華清宮」と名付けられました。楊貴妃は傾国の名花として名高く、718年蜀州の官吏楊玄炎の娘として生まれ、名は楊玉環と言います。16歳の時、美人(官名)に選ばれて宮殿に入り、玄宗の子、寿王の妃となりました。唐の開元二十八年(740年)十月、玄宗皇帝が華清宮に行幸中、宦官の高力士の推薦によって召し出されました。その後、楊貴妃は女道士となり、太真と称し、太真宮に住みました。官名通りに美人で聡明、その上下歌舞に長じた玉環は玄宗の寵愛を一身に集めました。745年には皇后に次ぐ高位の貴妃となりました。それ以来、玄宗は毎年秋から翌年春まで楊貴妃と共に華清宮に住み、温泉に入り、歌舞を観賞し、歓楽の日々を送りました。また楊貴妃の姉三人は妹のおかげで宮中に入り、まもなく一族の楊国忠が宰相の要職に就き、楊氏は栄華を極めました。華清宮には玄宗と楊貴妃のために蓮花湯と海棠湯という専用の浴室も造られました。当時の蓮花湯は規模が極めて大きく、大理石で造営し、白い玉石で魚、竜、雁、蓮の花などの形を彫刻し、十八の浴室を飾りました。特に白い玉石で彫刻された蓮の花は温泉の湯の中で、まるで芙蓉の花が水面に咲いているようだっとと伝えられています。飛霜殿は玄宗と楊貴妃が泊まったところで、また、宴会と歌舞に明け暮れていたところでもありました。この殿の南に九竜池があり、昔、温泉の湯が流れ注いでいた池です。玄宗と楊貴妃は飛霜殿の前に立って、池から湯気の立っている風景を観賞しながら、語り合いました。この情景は唐代の風景画にも描かれています。貴妃池とは彼女の専用の浴槽で、蓮の花の形をしています。楊貴妃は入浴してから、飛霞閣に上がって、髪を乾かし、その後、すぐに桐蔭軒で踊りました。玄宗はその入口で惚れ惚れとして眺めていたと言います。楊貴妃は茘枝が代好きだったので、馬で蜀州から長安に運んだという話があります。600キロも離れている蜀集から三日間で茘枝を運べという命令もありました。唐代の有名な詩人白楽天は、玄宗と楊貴妃の華清宮におけるロマンスを素材にして長編の叙事詩「長恨歌」を作りました。「春寒くして浴を賜う華清宮、温泉の見ず滑らかにして凝脂を洗う」華清宮は現代中国の政治舞台にも輝かしい1ページを飾っています。1936年12月、蒋介石は南京を出発して西安に来ました。その目的は楊虎城の西北軍と張学良の東北軍による共産党「討伐」が一向に捗らないことに業を煮やし、この二人の将軍を督戦するためでした。蒋介石は華清宮の五間庁に泊まって、12月12日朝5時、突然の銃声で目を覚まし、着替えもできず、裸のままで窓を乗り越え、山腹に逃走しました。山はらの大きな石の隙間に隠れている時、8時頃、張学良の護衛兵が発見して捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉しました。張学良と楊虎城はさっそく延安にいる毛沢東に電報を打ち、代表団の派遣を要請しました。毛沢東は周恩来を西安に派遣しました。周恩来は何度も蒋介石と交渉し、その結果第二次「国共合作」が実現しました。五間庁の窓には今も当時の弾痕が残っています。山腹には記念のため、石造の部屋が建てられ、「兵諌亭」と名付けられました。現在の華清宮には温泉の湯元が四ヶ所あり、一時間の湧出量は125トンです。温泉は摂氏43度、その名かに石灰、炭酸マンガン、硫酸ナトリウムなどの九種類の有機物質が含まれていて、関節炎や皮膚病に効能があります。最近発見された唐の太宗皇帝の星辰湯、玄宗皇帝の蓮華湯、楊貴妃の海棠湯などの著名人の浴槽の遺跡の上に古典的な建物が作られました。尚、飛霜殿の前に立って眺望すれば美しい風景の庭園に広い池があり、朱塗の亭や楼閣、東屋などの唐代の風格を保っている建物が点在し、枝垂れ柳や百日紅の木が茂り、古代にロマンスが偲ばれます。
中国語名:
华清池(huá qīng shi)
中国語名の読み方:
ホア チン チー
英語名:
Huaqing Hot Springinludes Chiang Kai Chek Quaters

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