景徳鎮には官窯(かんよう)と民窯(みんよう)とが存在しました。
元・明・清代を通して宮廷ご用達の窯・官窯がおかれ、皇帝や皇宮専用の磁器として数多く作られました。一般市場向けには民窯(昔の技術や伝統を受け継ぎ一般民衆の使う雑器を焼いている窯)があり、中国国内だけでなく世界各国へも輸出されていました。

需要が増し生産が追いつかなくなったことで、官民合同方式が励行されるようになりました。
これにより、優秀な磁器原材料と工芸技術が民窯に流れる結果をもたらし、民窯は大きく発展していきました。そして、明代・清代では中国の製陶業に繁栄をもたらし、景徳鎮の磁器は中国陶磁器の世界における地位を確立していったのです。

芸術、美術が低迷する時代の激動期、例えば各時代の末期、景徳鎮も大きく影響を受けました。
第二次世界大戦後も国民党対共産党、そして中華人民共和国成立後は、生活用品としての陶磁器に重点がおかれ、以前のような芸術性の高い陶磁器は衰退しました。とくに1966年に始まった文化大革命では、徐々に復興してきた文化・芸術の関係者を農村に追放し、景徳鎮でも多くの技術者でさえ、再教育のため農村に追放されました。その結果、完全に文化・芸術復興の芽は取られました。

1978年の開放経済体制に移行後は、市場メカニズムの導入による急速に拡大発展した経済の影響を受け、生産要素の流動化によって現在の窯の姿となったのは、必然的な帰結であると言えます。
中国語名:
窑(yáo)
中国語名の読み方:
ヤオ
英語名:
Yao
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